見栄 #2

ブログを始めて二日目。僕の生活ルーティンに新たに加わろうとしているこいつの存在感を随所に感じた一日だった。

 

「今日は〇〇について書こうかな」「△△に対する考えを書こうかな」といった様に、ブログに書きたい内容を探している自分がいた。ダメだ、これではタスクになってしまう。

 

昨日の末尾で「無理なく続けていきたい」と考えていたのに、すぐに「義務」のように感じてしまう。これは僕の悪い癖だ。どんな物事に対しても一度義務感を感じてしまうと、自分で無意識のうちにやり遂げなければいけないという圧力をかけ、精神的に自分を追い込んでいく。このやり方で仕事で心を病んだことがあるにもかかわらず、だ。

 

しかも厄介なのは、自分の中では圧力に負けるのはダサいこと・格好悪いことだと考えているため、周囲には自分はプレッシャーに強い(ストレスに強い)ふりをしながら生きていることだ。だから本当はやりたくない仕事だとしても、「辞めるのは逃げ」だとか「こなせないのはダサい」といった考えが根底にあり、今日もやりたくない仕事を続けている。

 

「見栄」って恐ろしい。(ここでは、「承認欲求」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。)20代後半になるにつれて、そう感じるようになってきた。

 

学生時代は高校や大学の偏差値、社会人になってからは給料や社会的ステータスといった指標で周りからは評価される。この風潮が僕はそもそも好きではないが、このような指標で評価される世界で人生の多くを過ごしてきたため、簡単には抜け出せなくなっている。

 

今僕がやりたくない仕事を続けているのも、そこそこの待遇の良さと、一般的に大企業と呼ばれる会社に勤めているという社会的ステータスがあるから、にすぎない。(ついでに親に口うるさく言われることもなくなる。)つまり、僕はいま他者の評価指標で生きていて、これを維持するためにつまらない「見栄」を張って生きている。

 

よく、「自分のやりたいことやりなよ」という言葉を気軽に投げかけてくる人間がいるが、他者の評価軸に沿ってアイデンティティを構築してきた人間が、急に「自己の評価軸に沿って生きろ」と言われたら自己の崩壊を招く。思考から他者の評価を気にしたものになっていく癖がついてしまっているのだから。

 

おそらく、今すぐ生き方を変えるような無茶は僕にはできない。僕は万全を期すタイプの人間だから。少しずつ他社の評価軸から離れる努力をしようと思っている。あと、「くだらない見栄」を張るのをやめようと心に決めた。

 

僕が「くだらない見栄」と呼んでいるのは、「自分自身を等身大以上に見せること」だ。これをやめる。あらゆるシーンにおけるマウント、承認欲求に端を発した言動・行動、等々だ。

 

元々、これらを表立って見せびらかすような「歩く承認欲求満たし人間」であったわけではないし、そーゆー会話が好きな人間ではないことだけは、言わせてほしい。年収、車、ハイブランドな装飾品、家、女性関係、全てどうでもいい。(これは、決して「見栄」を張っているわけではない。決してだ。)

 

 

テーマは、等身大。これを今年の目標にしていこうと決めた。

 

今日もコメダシロノワールがうまい!

 

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